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    <title>日本史講座日記☆歴史の裏側おもしろエピソード</title>
    <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/</link>
    <language>ja</language>
    <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs>
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    <itunes:summary>中高生・社会人も必見の日本史の裏側講座日記！日本史を学んで、今に役立つ力、生きる力を身に付けよう。</itunes:summary>
    <itunes:keywords>日本史 講座 歴史 人文 真実 裏側 日記</itunes:keywords>
    
    <itunes:author>ムク輔</itunes:author>	
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      <title>前田利家の不覚、家康暗殺の失敗！！</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/25347838.html</link>
      <description>ここでの主人公は前田利家です前田利家は、豊臣秀吉とともに織田信長に仕え、後に加賀百万石の大大名となります彼にはいろんなエピソードがあってとってもおもしろい人物であります(まつと結婚した話とか「かぶき者」の話とか)ここでは、慶長三年に秀吉が亡くなって、その後家康が勢力を拡げる時期に前田利家がどのような行動をとったのかに注目していきますね秀吉が亡くなってから、家康は五大老でありながら自分勝手なことを振舞うようになります一方、利家は五大老の中心的存在で、かつ秀吉から豊臣家後継者である秀頼の後見人を頼まれているほど、その存在感は強烈なものです利家は自分が生きている間に、目障り...</description>
      <pubDate>Thu, 12 Oct 2006 23:39:20 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：戦国・安土桃山編</category>
      <author>ムク輔</author>
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      <title>水戸黄門の素顔を探れ！！</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/25166839.html</link>
      <description>じーんせーい、楽ありゃぁ苦ーもあーるーさー&amp;#63899;なーんて小さい頃よく歌ってました&amp;#63893;そう、水戸黄門さんの定番ソングです&amp;#63733;小さい頃はボクの祖父・祖母とコタツに入って仲良く見てました悪い代官は水戸黄門様がやっつけてくれるんだ&amp;#63906;と本気で信じてた頃もありました。笑でも、黄門様ってのは、お分かりかも知れませんがフィクションであって、助さん格さん、そして残念なことに「うっかりハチベエ」さんまでも作られた話なわけです&amp;#63909;実はここ...</description>
      <pubDate>Tue, 10 Oct 2006 00:28:15 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：江戸編</category>
      <author>ムク輔</author>
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      <title>桃太郎、モデルは実は源為朝!?</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/25109815.html</link>
      <description>鎌倉時代ということで、やっぱり最初は勇ましい武士を書きたいなぁと思いまして・・そこで源為朝です彼は身長七寸(約2.1ｍ)の大男で弓の名人として有名です保元の乱では崇徳上皇側について活躍を見せますが、後白河天皇側に敗れます父為義が斬首とされるなか、為朝は伊豆大島へ流罪というだけで許されますそのかわり今度弓が使われないように両肩の腱を切られるんですがね。笑しかし、『保元物語』異文によると、両肩の腱も治り、すぐに弓を射ることができたそうですここからおもしろいエピソードがありまして、源為朝は他にも島があるだろうと思い、海鳥を頼りに船を出して旅をしましたすると、為朝の言うとおり、島を発見し、そこには島身長一丈(約三メートル以上)の毛むくじゃらの大男たちがいたそうです大男たちに聞いてみると、この島は「鬼が島」だと言うわけです為朝はその中から１人を大島に連れて帰りましたが、大男を見た人々は大慌て！代官も為朝の反乱だと思い込み、役所に訴えかけますそれによって為朝の死罪が確定し、大軍で大島に押しかけますが、為朝は無益な争いはしたくないと考え、最後に自ら腹を切って、死ぬ道を選んだのです・・・・何か桃太郎に似ていません？？まぁ、ボクは源為朝がモデルとなったとされる『椿説弓張月』を読んだことがありませんし、「桃太郎」の話の起源も知らないから何とも言えません。苦笑それでも「鬼が島」という共通点があるわけですから、何か関係があるかも知れませんね←でも全然わかりませんがね</description>
      <pubDate>Mon, 09 Oct 2006 00:28:49 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：鎌倉・室町編</category>
      <author>ムク輔</author>
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      <title>伊達政宗、彼はホントに独眼竜!?</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/25063518.html</link>
      <description>奥州を平定し、徳川家康や豊臣秀吉たちに恐れられた「奥州王」、またの名を「独眼竜政宗」彼は小さい頃に天然痘にかかり、右目を失明してしまいます通説によると、幼少時代に政宗を勇猛な戦国大名に育て上げた名守役(←簡単に言えば教育係と思っていただければ幸いです)片倉小十郎が小刀で政宗の右目をえぐり出したらしいですえぐりだすとか・・かなりエグイね。笑そんで１９７４年に政宗の遺骨を再発掘する機会があって、政宗の頭蓋骨を科学的に検証した結果、右目には傷などの異常も何も発見できなかったんですもちろん外傷がないだけで、視力そのものが失われたということで「隻眼」となったかも知れませんがね・・でも少なくとも小刀でえぐりだすという行為はなかったらしいです(そりゃそうでしょ。笑)でもこうやって隻眼とか少し傷があるほうが、武者って荒々しくて強いイメージがあるのはボクだけですかねいい意味で、伊達政宗は「傷」を保持していたのではないかなもう「隻眼(片目)」ですら男のファッションとして取り込むほどにさいやね、伊達政宗はかなりのファッションに気を遣ってたんですよよく「伊達者」って言うじゃないですかあれは政宗からきているんです秀吉の朝鮮出兵の令を受けて、政宗は兵たちに豪華な装飾を施した鎧や刀を与えて、京都や名護屋(←今の佐賀県唐津市)に向けて出発させましたこれには、奥州伊達家の権威と戦力を見せつけるという巧妙な正宗の意図があったんです政宗の狙いは見事的中&amp;#63911;それを見た人々は、「さすが奥州王、伊達政宗。」と驚嘆し、政宗の存在感や怖さを存分に理解するのですそれ以後、派手で奇抜な格好をする人を「伊達者」と呼ばれるようになりました伊達政宗・・ボクも男だし、少しは「キズ&amp;#63651;」を持って、彼みたいにバシッときめてみたいものです&amp;#63911;</description>
      <pubDate>Sun, 08 Oct 2006 01:48:55 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：戦国・安土桃山編</category>
      <author>ムク輔</author>
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      <title>ここはホントに邪馬台国!?吉野ヶ里遺跡を孤独調査</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/24720123.html</link>
      <description>ボクの実家の近くに、吉野ヶ里遺跡があります弥生時代の遺跡の中でも１，２位を争うくらい、有名ではないでしょうか小さい頃は何回か吉野ヶ里遺跡を訪れましたあの頃は、真剣に「ここが邪馬台国だったんだー」なんて思っていたわけですそりゃ地元の思いからすれば、当然ですがね大学生になってから、ようやく吉野ヶ里遺跡に行くことができました仲間も誘って行こうーなんて思ってたんだけど、でも誰も付いていてくれないだろうと思い、早朝から１人寂しく出発することに・・行って改めて思った吉野ヶ里遺跡は完全に観光化させている・・だって吉野ヶ里公園を作ったり、吉野ヶ里駅なんかあったり、ついこの間には町も「吉野ヶ里町」に改名されちゃってますからしまいには、吉野ヶ里公園のマスコット人形の名前なんか「ひみか」ですからね・・もしや、あの卑弥呼を元にしてるの？なんて大それたことを。笑今でも学会では卑弥呼がいたとされる邪馬台国がどこにあるのか論争になっています主に、九州説と近畿説どちらも言い分があり、決め手を欠いてるって感じですね今に残る地方の名前や、遺跡の数、またそこから発掘される出土品など、様々な角度から邪馬台国の検証が行われていますボクの個人的な考えだとやっぱり吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではないでしょう明らかに注目される出土品の時代が邪馬台国の時代と異なりますもんあと『魏志倭人伝』に記述されている銅鏡があまり発掘されていないってのが致命的です何でも昔の話では銅鏡が田んぼの中から発掘されていたということを聞いたことはありますでも実際にその銅鏡がありませんからね、残念↓↓じゃあ、お前は邪馬台国は近畿説をとるのかと言われると・・そうでもありません漠然とした思いなんですけど、イメージとしては邪馬台国は九州と近畿の両方ではなかったと考えています詳しく言えば、邪馬台国は九州から近畿地方に移ったのではないかと・・確実に国として機能したのは近畿に移ってからで、その前身となったのが九州地方の時であったのだと一応、論拠として倭国大乱の時期と、祭りの祭器の性質などがあるんですけどねこれはある教授方の説でもありますもうこれ以上詳しくは書きません笑でもボクが思うに、邪馬台国の魅力って、はっきり分からないことにあるんじゃないですかね分からないから、少ない資料をもとに、想像力をかりたてて多くの説を生み出していく邪馬台国が今まだ幻の存在だから、そこに追究するロマンがあるんだと思います(・・なんか語ってしまった。照)それに冒頭であんな風に書いちゃったけど、ボクは吉野ヶ里遺跡が好きです♪やっぱ地元愛が湧いてきますからね&amp;#63903;また次回も吉野ヶ里遺跡に行くつもりです&amp;#63903;</description>
      <pubDate>Sun, 01 Oct 2006 17:54:00 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：縄文・弥生編</category>
      <author>ムク輔</author>
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      <title>弘法(空海)は実は筆を選んでいた!?</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/24718283.html</link>
      <description>弘法筆を選ばず有名な言葉ですよねボクが高校生のとき、バスケ部に入ってたんだけどバスケットシューズを選ぶときはいつもめちゃくちゃ悩んでましたそしたら、決まって親がこの言葉を使って悩むボクをたしなめるんです。ボクはかなりの優柔不断でも悩んだっていいじゃない人間悩むことは大切なのさ！バスケットシューズにも性能が色々あって、バッシュにも一つ一つ一長一短があるんです選手のポジションやプレイスタイル、自分の癖みたいなのをしっかり理解して買わないと、後から痛い目にあうんですバッシュといっても、なかなか奥が深いんす！笑・・話がそれました。苦笑実は色々な資料から、空海はきちんと筆を選んでいたことが分かっているそうです筆職人に、自分の書きやすい筆をわざわざ筆の毛や硬さなどを指定して、コーディネートしていた記録が残っていますさらにその時代の皇太子に空海が筆を献上する際に、書家たる者は筆も選ばなくてはならないと諌めていますさらにさらに、自分が書きたい書体を目指すために、毛で作られた一般的な筆だけでなく木筆や頭がヘラ状の筆なんかも使っていたそうです空海は使いどころをきちんと見極めて、筆を用いていたんですねさすが嵯峨天皇、橘逸勢と共に「三筆」に数えられる空海さん。弘法筆を選ばず・・ちゃんと弘法は筆を選んでいました。笑でもこれはこれで、いいことわざですからね！ボクもよく妥協するときに用いていますもん。こんな風に、色々歴史の裏側を知るっておもしろい・・と思いません？？笑</description>
      <pubDate>Sun, 01 Oct 2006 17:09:58 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：奈良・平安編</category>
      <author>ムク輔</author>
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      <title>科学と怪奇現象の対決：平賀源内</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/24689046.html</link>
      <description>江戸時代で「発明家」と言えば、そりゃ大抵のみなさんは平賀源内さんを思いつくでしょうこの人は、とにかく才能ある自由人何でもかんでもやってその才能の片鱗をかたっぱしから見せつけます。20代で本草学・薬学を学び、そこから博物学、医学、はては文学や絵画にも手を出します源内が描いた『西洋婦人図』では日本人で初めて西洋画を描いたと言われています浄瑠璃作家としても成功を収めているそうです。一番有名なのが、発明品エレキテルそう、あの火花がバチッて発生する四角い機械けっこうブームになったらしくて、エレキテルのパクリまで現れたとか!?それに怒った源内は、なんと役所にエレキテルの「特許出願届」を提出したらしいです。笑もちろん日本人で初めて特許取得を申請したのは平賀源内この人の考えていることは、常に当時の人達の一歩先を歩いていたような気がしますねそんでおもしろい話が・・平賀源内の最期昔、高校の教科書かなんかで、「源内は酒を飲みすぎて、何故か友人を切り殺してしまい、捕まりその後は獄中で病死した」みたいなことを平然と書かれてあったなんかあやふやに書かれていますよね一番知りたいのが、何故いきなり友人を切り殺したのかということ本当にお酒の力だけで人を切ってしまうものなの？？・・そんで、おもしろいエピソードが！何でも、幽霊とか怪奇現象を全く信じなかった源内は、事件を起こす直前に、ある家に引越しをしていたらしいですその家は当時、住んだ人は必ず死ぬといわれた呪われた家・・まさに江戸時代版の「呪怨」です源内は、死ぬものかというバカにした気持ちでわざわざその家に住んだんでしょうね。苦笑・・笑える話なのか、笑えない話なのか。(ボクはあんまり笑えません)このような才能あふれる人も、やはり科学的に立証できない事象に敗れてしまうのかと思うと悲しいですね人間の限界を思い知った気がしますみなさん、くれぐれも心霊スポットとかに行ったらダメですよ！源内ですら、負けてしまったんですから。(←これもホントかどうかは分かりませんがね。)</description>
      <pubDate>Sun, 01 Oct 2006 00:49:36 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：江戸編</category>
      <author>ムク輔</author>
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      <title>北条早雲から学ぶ長生きの秘訣</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/24685216.html</link>
      <description>戦国時代の中でも、まさに「下剋上」という言葉が似合う、戦国大名といえば北条早雲ですね。彼が生きる時代とは、1467年(人の世むなし)応仁の乱から起こる戦乱の時代です。早雲の宿敵のライバルは山内上杉、扇谷の上杉という二つの上杉家。有名な話に、早雲の初夢というのがあります。あるところに、大きな２本の杉が立っていたそこに一匹のねずみが現れ、２本の杉の根っこをかじったあっという間に２本の杉は倒れたするとねずみは大きくなって虎となった・・という夢です。この夢を見た早雲は、ねずみはねずみ年である自分であり、２本の杉はあのにっくき両上杉家であると判断したわけです。これで早雲の中で「打倒両上杉氏！」という思いが高まったんですね(まぁホントかどうかはあやしいけど・笑)そんでさらにつっこませていただきますと(笑)、早雲が生きているときに上杉家を倒すことは達成できませんでした。残念。でも早雲の思いは息子氏綱、孫の氏康にまでしっかりと受け継がれるのです。そんで今回、ボクが注目したいのは北条早雲の年齢。なんと彼は、平均寿命が30~50才という時代の中で、８７歳！！まで生きました。・・す、すさまじいとしか言いようがない。仮にその当時の平均寿命を40歳と仮定しても、プラス47歳ですよ。今の男性の平均寿命が79歳らしいから、現代でいう１２６歳！！(なんか計算おかしいかな？)なんでこんなに早雲が長生きできたのかと言うと、一つ目に、当たり前だけど健康的な生活からです。朝は午前四時までに起きる。夜は八時前には寝る。朝は行水を怠らない。食事も、幼少時代に寺で修行をしていたせいか、梅干などの栄養価の高いものを適量(少量)で食べる。(この生活自体がすさまじいけどね。笑)二つ目に読書。早雲が残した家訓に「多くの本を読め」「歌道に精通しろ」といった学問に対する思いもつづられているんだって。早雲は多くの本を読んだおかげで肉体だけで...</description>
      <pubDate>Sat, 30 Sep 2006 23:40:47 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：戦国・安土桃山編</category>
      <author>ムク輔</author>
          </item>
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      <title>文武両道といえば、福澤諭吉先生</title>
      <link>http://nihonnsikouzanikki.seesaa.net/article/24679347.html</link>
      <description>ご存知、わが国の一万円札として長年みんなの願いも背負っている福澤諭吉。その当時、国民の10人に1人が読んだとされる『学問のすゝめ』、また大学受験生にはおぼえてもらいたい『西洋事情』、『文明論之概略』などが有名で、どうしてもペンを握る知性派的、さらに西洋人的オーラを持っている印象がありますよね。でも、福澤諭吉はまさに「文武両道」明治に生きる武士幕末生まれの福澤諭吉は「武士道」を重んじ、体を動かすのも大好き。毎朝、5時前後に起床し、慶応義塾の学生とお散歩。毎日1000本の抜刀を繰り返し、その成果もあって、見事な居合い術の達人となったそうです。さらにさらに、自他認める酒豪家＆愛煙家でもあり、勉強一直線という性格ではなかったんですね。ボクもお酒が大好きで、この間、急性アルコール中毒とかなっちゃいましたけど。福澤諭吉先生みたいに、勉強するときは勉強して、飲むときは飲むというメリハリをつけないとだめだね。最近みんなから「アル中」と呼ばれておりますが、そんなやつのブログには説得力はありませんが、長い目で見守ってください。色々と、みなさんの役に立つ歴史を紹介をしていくよう、頑張ります！</description>
      <pubDate>Sat, 30 Sep 2006 21:53:52 +0900</pubDate>
      <category>日本史講座：明治・大正編</category>
      <author>ムク輔</author>
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